月刊 《園芸世界 7月》
清代の文人として名のあったわけでもない市井の一読書人、沈復が綴った回想録『浮生六記』は、早く逝った妻、芸への愛と江南の庭園への思いに満ちたしみじみと心に残る佳篇である。沈復が乾隆28年(1763)に生まれ18歳で同年の新妻を迎えた家は、何とかずかずの名園に彩られる蘇州にあってもっとも古い歴史を誇る滄浪亭の西隣りに在ったのだ。滄浪亭は庭の名であると同時に、石を積んだ築山の頂の小亭の名でもある。そこからは四方が望まれ夕焼けが見事だった。彼らは毛氈を敷き茶を娯しむ。やがて月が高く昇り月影が波に浮かぶと、浮世のあくせくが洗い流される思いであったと沈復は記している。
ある寺の裏山を調べている時、見た事もない変な物を見つけた。粘土質の地面から直径1.5cm程の肉色のサンゴのような物が出ているのだ。キノコの仲間以外に考えられないが思い当たるものがない。ふとした閃きがあって小枝を使って掘ってみた。すると、何と小さなセミの幼虫が出て来たのだ。これが私が冬虫夏草の仲間のセミタケに初めて出会った瞬間だった。漠然と人里離れた深山幽谷にしか発生しないと思っていた冬虫夏草がこんな近くで見つかるとは。さっそく図書館で冬虫夏草について調べまくった私は『冬虫夏草菌図譜』(小林義雄、清水大典共著、保育社刊)という本を手にして衝撃を受けた。清水氏による150種以上もの冬虫夏草の細密画は人の空想が思いも及ばぬ奇怪な形態に溢れていて私を圧倒した。ギリシャ神話のペガサスやキマイラをはじめ人魚や鵺などいくつかの生き物を合成した怪物達に人は惹かれてきた。ところが虫とキノコを合成したような生き物が現実に存在するのだ。その内の何十種類かは普通種と言われ人里近くでも比較的簡単に見つかるということなので、普通のキノコはそっちのけで冬虫夏草を捜しまわることになった。
五百城文哉の植物画の特徴は植物のみを描くのではなく植物が自生している環境も描こうとしていることで、高島北海が欧州で単に山の風景を描くのではなく、林学という面から樹形を取り入れた山を描いている。林学の徒である高島北海は山岳画の中で、曖昧な樹木を描くのを好まず、生態的な山岳画を描きたかったのではないだろうか?五百城文哉の植物画が高島北海の山岳画にヒントを得たものかどうかは、分からないが、高山植物を愛好する五百城文哉が高山の花を、自生しているように描いたとしても不思議なことではなく、むしろ当然の結果だと思われる。
「植物のある風景」五百城文哉の植物画は、画用紙の上に浮き出た花ではなく、画用紙の全てが植物の世界になっていることが、見る人が共感するのではないだろうか?
尾瀬と云えばすぐに思い出されるのはオゼソウだが、これもやはり蛇紋岩地域の植物らしくて、ここ至仏山と谷川岳、さらに北海道の天塩山地のいずれも蛇紋岩地帯に分布しているに過ぎない。だから尾瀬草の名はあっても、尾瀬ヶ原湿原の植物ではないのである。ユリ科に属しチシマゼキショウ属に似たところがあるが、近縁ということもなく日本の特産属という珍しい一属一種の植物である。
蛇紋岩はち密で水を透さない。至仏は残雪を遅くまでのせている山と云うこともあって、山頂までの岩場続きの稜線にも、乾いた場所と湿地とが交互に出現する。そしてこれも恐らくはこの山の植物相を多彩にしている一因であろう。多湿な場所にはシラネアオイ・シナノキンバイ・イワイチョウ・ムシトリスミレ・ユキワリソウ・ハクサンコザクラなどがあり、これらは雪渓が消えるのを追うようにして、つぎつぎに咲きだすのである。